贈り物 金額だけが 価値じゃない2008年11月11日 20時50分30秒

今日は非常に嫌な気分でブログの記事を考えている。
幾つかネタになりそうな話があるのだけど「帰り道」という状況のせいで、帰宅後に待っているかも知れない面倒毎を思うと憂鬱になってくる。
帰宅したくなくなる原因は父親にあるというのはすっかりお馴染みの事だとおもうが、今回は特別に嫌悪感が強くて吐き気がするほどだ。

事の始まりは朝の支度をしている最中になった電話にあって、電話の主は母親の友人で命日に合わせて菓子折りを贈ってくれた方だった。
話の内容は「命日に贈った品物への御礼返しなんて気遣いは無用です」との申し出と贈られてきた物への御礼だった。
俺は命日に御霊前として贈られてきた品に対して、御礼の品を贈るような真似はしていない。
そんな馬鹿をやる輩は俺の知る限りで父親しか居ないから、すぐに事情を理解して対応したけれど本当に嫌な気分だった。

父親に問いただしてみると悪びれるどころか御礼として松坂牛を送ったことを誇らしげに語り始めたから呆れてしまう。
先方が送ってきた品は高く見積もっても 4千円くらいの菓子折りなのに対して、父が送ったであろう肉は市場に出せば 1万円を軽く超える。
つまり御礼と言いながら先方の贈り物より遙かに高価な品物を送りつけたことになり、それだけでも既に失礼な話だ。

加えて、今回の頂物はお中元などの送り合う物とは全く異なる意味を持つ品だから基本的に御礼は不要なんだ。
こちらから御礼を返したら、相手の気持ちまで送り返す形とも成りかねない失礼極まりない行為だと思う。
去年も同じようなことがあって、先方を困らせる事になるからやめるように注意したはずなんだ。
それなのに、あの無駄な誇らしげな表情を見る限り理解すらしてくれていない様子だ。

確かに先方の亡き母を思ってくれた気持ちに対する御礼をする事に対して異論はないし、むしろすべきだとは思う。
しかし、その形は物や金という形ではなくて、御礼の電話や手紙といった形で伝える心であるべきではないか。
そう考えて、今朝は注意で手紙や電話での御礼で済ませるように注意した途端に父は渋い顔をし始めた。

その表情を見ていて、我が父は送られてきた品物に込められた気持ちを汲み取った上で御礼を返すなんて考えてないのだと感じた。
だから、本当の気持ちを込めなければならない電話や手紙といった形での御礼を渋るのだと思う。
悲しい事に俺の父親は「物を貰ったら物を返す」という物々交換が基本にあって、気持ちを金額で示す事に自己満足を感じているだけなんだ。

そんな浅はかな贈り物を受け取ってしまったら、先方が困惑してしまう事は当然のことだろう。
我が父親ながら情けない事だ。