早起きで 見える世界が 変わるかな?2009年10月04日 21時29分12秒

昨日は目覚ましの時刻を設定していながらアラームをオンにするのを忘れるなんて馬鹿をやらかして、休日でも早めに起床しようという生活健全化計画の初手で躓くという失態を演じてしまった。
その反省もあって、昨夜は就寝前に 2回もアラーム設定を確認してから布団へ潜り込んだので、しっかりと目覚ましが発動してくれて朝 8時に起床する事ができた。
ここ最近は通院の予定が入っている土曜でも10時近くまで寝ている事が多かったから、時間で言えば 2時間ほど午前中が長くなった計算になるのだけど、体感ではもっと一日が長くなった気がするから面白い。

恐らくは遅めの朝食を食べ終わった時点で正午までカウントダウンが始まっている状態だと、出掛けるにしても夜盲症のため日が落ちる前に帰宅しなければならないという制限が気になってしまう。
その影響は買い物へ出るにしても遠出をする気力が沸かず、ぶらりとサイクリングへ出掛ける選択肢も思い浮かぶより前に却下されてしまう状態を生み出してしまう。
要するに惰眠を貪っている間に行動の選択肢が次々と削られてしまって、とりあえずPCの前に座る所から休日がスタートして、何をするでもなく時間を過ごしてしまうから、あっという間に休日が終わってしまうと感じるのだろう。

今日は昨日の作業の続きが残っていたから出掛ける事はできなかったけれど、息抜きをしようと思った時に色々とやりたい事が思い浮かんできて、時間の配分や使い方に悩むことさえもあった。
ここ最近の休日と言えば、どちらかと言えば暇潰しを探していた時間の方が長くて、今日のような濃度の高い休日を過ごした後だと無駄な時間を過ごしていた気がしてくる。
できることなら来週も同じような充実した休日を過ごしたいと思うのだけど、体調を安定させるとか休日の早起き以外にもやるべき事があるから難しそうな気がするけれど頑張っていきたい。


ふと思ったのだけど、休日を何のために使うのが普通なのだろうか?
ここ最近の俺は平日を乗り越えるための休養期間として休日を使っているイメージが強いのだけど、学生時代は休日で遊び歩くために課題やレポートを早々に片付けていた気がする。
もちろん学生と社会人では立場や生活スタンスが違うので、平日と休日のどちらに重点を置くべきなのか判断基準が変わってきたとしても不思議ではないだろう。
だけど、平日の殆どは仕事のために時間を使っているのに、休日まで仕事を安定して行うための休養期間と定めてしまうと、自分のために使う時間が無くなってしまう。

もちろん活きていくための仕事だから時に自分の生活を犠牲にしなければならない時もあるけれど、それが常態化してしまうのは何のために活きているのかと首を傾げたくなる。
そんな疑問について考えている時、不意に仕事ばかりで家族サービスという言葉を知らないと思っていた父親が、母親の葬式の後で「定年したら家族サービスをするつもりだったのに・・・」と言っていていたのを思い出した。
父親は上記の発言からも分かるように疑う余地が全くない仕事人間で、何処かへ連れて行ってもらった経験は両手で足りる程度の回数しかなく、休日と言えば布団の上でゴロゴロとしている姿しか記憶してない。
父親は足が悪かった事もあるから仕方がないと言えなくもないが、あの生活を見ていると同じようになりたくはないと今でも思うのだけど、振り返ってみると今の自分が似たり寄ったりな気がしてきた。

ひとまず仕事か自分かどちらかに偏らないように、バランスを取りながら人生を送れるように配慮してみようと思うのだけど、いきなり変われと言われても難しいから休日に早起きをする事を続けてみよう。