思い出は 写真だけだと 取りこぼす ― 2018年03月08日 23時10分56秒
思い出を写真に残すという行為が好きでない。
写真は何処まで突き詰めても1つの情報でしかなくて、見る事で思い出を引き出す切っ掛けとして機能こそしても、その1枚に様々な情景や過去が記録されているわけではない。
あくまでも思い出を引き出す鍵の1つにしか成り得ないのだから、思い出を写真に残すと言いながら撮影に熱中していると、写真を撮っていた記憶だけになってしまう。
当然ながら、写真だけ見ても撮影という日常に近しい行動の記憶しか出てこなくて、映された情報以上の記憶が掘り起こされない悲しい状況になりかねない。
写真を美しさや素晴らしさを他者へ伝えるための媒体として活用するなら良いけれど、画像だけより思い出話を一緒に提供する方が格段に伝わるので、写真はやはり補助的な意味合いの方が強いと考える。
それなのに「思い出を写真に残す」という行為は、写真こそが思い出であるかのような振る舞い方を見せるので、それこそ思い出を残せない原因に思えて好きになれない。
ここ最近だと何かに付けてスマートフォンを掲げて騒いでいる様子が目について、画面越しにしか見ていない様子に呆れてしまう場面が非常に多い。
それに何よりも好ましくないと感じる事は、撮影した写真をSNSへ投稿した後に見直していなくて、整理もしていないので見返す事さえままならないと言い出す。
思い出とは何なのかを少し考え直した方が良いのでないかとつくづく二思う今日この頃だ。
写真は何処まで突き詰めても1つの情報でしかなくて、見る事で思い出を引き出す切っ掛けとして機能こそしても、その1枚に様々な情景や過去が記録されているわけではない。
あくまでも思い出を引き出す鍵の1つにしか成り得ないのだから、思い出を写真に残すと言いながら撮影に熱中していると、写真を撮っていた記憶だけになってしまう。
当然ながら、写真だけ見ても撮影という日常に近しい行動の記憶しか出てこなくて、映された情報以上の記憶が掘り起こされない悲しい状況になりかねない。
写真を美しさや素晴らしさを他者へ伝えるための媒体として活用するなら良いけれど、画像だけより思い出話を一緒に提供する方が格段に伝わるので、写真はやはり補助的な意味合いの方が強いと考える。
それなのに「思い出を写真に残す」という行為は、写真こそが思い出であるかのような振る舞い方を見せるので、それこそ思い出を残せない原因に思えて好きになれない。
ここ最近だと何かに付けてスマートフォンを掲げて騒いでいる様子が目について、画面越しにしか見ていない様子に呆れてしまう場面が非常に多い。
それに何よりも好ましくないと感じる事は、撮影した写真をSNSへ投稿した後に見直していなくて、整理もしていないので見返す事さえままならないと言い出す。
思い出とは何なのかを少し考え直した方が良いのでないかとつくづく二思う今日この頃だ。
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