障害を 理解するなど 無理だから2017年10月07日 23時44分22秒

Twitterを眺めていると時折に、障害のある子供の親が投稿したらしい記事を目にするのだけど、「障害をもっと理科してほしい」という言葉が付け加えられてる。
この言葉が見る度に偽善者の作り話でないかと疑いたくなるほど嫌いで、俺が過敏なだけでなく普通の人も何かしら違和感を覚えていたら、真実を語っているのに蛇足な一言がある事から心へ響かなくなると心配になる。

障害をもっと理科してほしい。
この言葉は障害が理解できる前提で話しているから漏れる一言なのだが、障害者の一人として生きてきた中で思う事として、理解できた気になっている奴ほど迷惑な存在へなる傾向が強いと感じる。
例えば、障害者という単語に「害」が含まれていて差別的だから別の表現をすべきだと言い出す輩が居るけれど、その議論が進んでも障害者支援の向上へ繋がるわけでもなく、むしろ面倒臭いと煙たがられる要因となるデメリットにさえ成り得る。
要するに、障害者を理解しているだとか、見方だとか言い出す輩を全く信用できなくて、偽善者が何か明後日の方向で騒いでいるようにしか見えない。

Twitter上で見掛ける話は障害に由来する事情に対して、知らない人から何らしかの文句を言われて悲しい思いをしたので、障害をもっと理解してほしいといった流れになっている。
まず第一に感じる事として、現代人は周囲への関心が極端に低いので小言を言ってくる状況が既に疑わしい。
それに何よりも、健常者との感覚の違いを理解していれば仕方ない事と開き直っているはずだし、過去に呆れるほど言われて慣れていても不思議でないのに、目くじらを立てるという状況に呆れてしまう。

そもそもに「理解してほしい」と言っている時点で、言っている本人が理解できるはずのない事なのだと分かっていない。
車椅子や全盲といった体験できる障害者でさえも適切な支援を受けられていないのに、特殊な感覚を伴う障害へ対する理解を求めて実るはずがない。
体験できない障害を理解する事は家族であっても無理な話であり、その難しさは赤色を例えや比較のない文章で説明してみれば分かり易いだろう。

極端の話を言えば、俺の見ている赤色は他の人にとって青色として映っている可能性もあるのだけど、同じ部分を同じ色で呼ぶから「赤い」という言葉と認識を共有できている。
要するに、他人の感覚を把握する事は非常に難しくて、障害者を理解する事は同様の難易度を含んでいて、何よりも縁のない一般大衆に理解しろと言い出す事は実に馬鹿げている。

こういう難しさが分かっていれば、こういう事情もあると知ってほしいと思う事こそあれ、障害を理解してほしいなんて言い出すはずがない。
だから、理解してほしいなどと言い出すと偽善者による作り話と見えてしまうのだ。