知識とは 記憶だけでは 成り立たず2015年08月28日 23時39分54秒

今日はやたらとTwitter上に三角関数に関する話題が多く見受けられて、調べて見ると、鹿児島知事が「高校教育で女子に(三角関数の)サイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか」と発言した事へ端を発するようだ。
元々は女性差別的な発言だとして注目されたのだけど、後に「自分自身も使ったことがないよねという意味。口が滑った」と弁明したのだが、この発言が更なる火種となっている。
要するに、自分自身が使わなかったから三角関数は不必要な知識であるとして切り捨て、別の有益な知識を与えるべきと言っていると解釈されて、三角関数を引き合いにアレコレと話題になっているようだ。
三角関数を抜いたとしても、女性は理系の道へ進むべきでないと言っているのだから差別的と言えるわけで、どちらにしても何の趣旨を持っての発言なのか理解できない。


この鹿児島知事は知識と記憶の区別もできない愚か者なのだろう。
学生時代の試験は一夜漬けの記憶だけど切り抜けた類なのかも知れない。
その場限りの知識を記憶する事しか知らない故に、色々な分野の基礎が何処かしらで繋がっていると気付かないまま生きてきて、本当の意味での豊富な知識が何なのか理解できていないだろう。
故に使用頻度でしか有用性を判定できない、そんな幼稚で狭い視野でしか物事を把握できないのだろう。
豊富な知識はひたすら丸暗記を繰り返した先にあるとか考えていそうな予感さえする。

豊富な知識の実体は浅く広い知識である場合が多くて、発想の取っ掛かりとなる記憶を多く持ち合わせる事で、様々な知識という引き出しを開けやすくした状態を指している。
丸暗記で応用力の欠片もない知識は何も生み出さないけれど、広い見聞は色々な情報の結び付きを把握する事により、思い出すばかりか想像や推測する事にも力を発揮する。

記憶の上に応用が加わることで、もっと深い知識を得る事になる。
知った以上の事を学ぶために必要な事は、知識の取っ掛かりとなる基礎知識を多く習得する事にあって、そういった学習の場として学校が酔いされているわけである。
学校で習う知識が実生活にそのまま役立つ事は殆どないのも、知識の取っ掛かりとして学習しているのだから当たり前で、引き出しの取っ手だけで役に立たないと言っている状況に等しい。

将来の選択肢を広く持たせる意味もあり、文系や理系に通じる知識を万遍なく与えているわけで、その中にあって女性だけ理数系の知識を不要と断言する事はすなわち、職業の選択肢を除外する事に等しい。
俺としてはどう解釈しても問題になる発言であると感じる。